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現代は「音楽の危機」の時代?

今回はちょっと大仰に構えてみます。 「鬱病から治りかけたとたんに大きなツラするんじゃねぇよ」 と罵声が飛んでくるかも知れません。あるいは 「そんなこと、今頃気が付いたのか?」 と、嘲笑の的になるかも知れません。 とにかく、 私にしては 少々生意気なことを述べてみようと思います。 てきとーにつき合ってください・・・m(_ _)m。

さて、実は私、 このごろ感じることがあるんです。 現代は、音楽-特にいわゆる「クラシック音楽」-にとって、 歴史上、最も「ヤバイ」時代ではないかと・・・。

このサイトをご覽になっている人の多くが 「クラシックファン」 ではないかと思います。 その中でも、 「古典派」 「ロマン派」 の曲を愛する人が多く、 いわゆる 「現代音楽」 が苦手な人も少なからず居るかと思います。 (かくいう私も現代音樂は苦手な部分が多い^^;) しかし、 考えてみてください、 我々の周囲の人間を集めて 「『クラシック音楽』のファンは手を挙げてください」 といったとき、 どれだけ手が上がるでしょうか? 少なくとも日本ではクラシック音楽愛好家は、 日本に居住する全人口から見て少数派です。

更に、 「クラシックのコンサート」というと、 なにやらしかつめらしい感じがし、 場合によってはスーツやドレスを着込んでそれなりに 「キメて」 聴きに行かなければならない物のように捉えられているような気がします。 そこまで大げさではなくても、 「演奏途中の騒音」、 「演奏途中の拍手や歓声」 などは、 多くの場合、 絶対厳禁でしょう。 少なくとも、 現代に生きる人々の多くにとって、 「クラシック音楽の演奏会」は、 日常生活から隔絶し、 コンサートホールの重たい扉で閉ざされた空間の中だけに存在します。 更に注意すべきは、我々が「クラシック音樂」に求めるのは、 その「美しさ」であり、 場合によっては「安らぎ」であったりする場合がとても多い、 ということです。

そして、 「クラシック音楽愛好家」 が好むのは多くの場合、 バッハ、 ハイドン、 モーツァルト、 ベートーヴェン、 ショパン、 ブラームスあたり・・・ これらは現代から200年以上、 あるいは300年以上昔に作曲された曲ばかりです。 そしてこれらを愛する人々が全人口の中のごく少数・・・。

考えてみると、これはとても「変」なことです。 小説、 映画、 ドラマなどでは、 過去に作られた名作と共に、 常に「新作」が何かと話題になる。 しかし、 クラシックの 「新作」 (=現代現代音楽) が大勢のクラシック音楽ファンの中で話題になるという例は とても少ない。

かつての「音楽」は違いました。 モーツァルトの時代には、彼の新作は 常に当時のマスコミで大々的に採りあげられ、 当時の音楽ファンはモーツァルトの音樂に 魅せられていました。 ベートーヴェンの晩年の大作 「ミサ・ソレムニス」 は、 ベートーヴェンの死後まもなく楽譜が出版されたそうですが、 そのときには購入予約が殺到したそうです。 すなわちモーツァルトやベートーヴェンの時代には、 「時代の最先端を行く現代音楽(=モーツァルトやベートーヴェンの作曲した音楽)」が、 当時の音楽ファンの注目の的だったということです。

更に言うなら、昔は、 「音楽」は、 今よりもずっと深く人々の思考・行動にかかわっていました。 ギリシア時代の哲学者ピタゴラスは音楽にも詳しいことで有名で、 「ピタゴラス調律法」は今もなお調律法の基本です。 地動説を唱え、太陽系の存在と惑星運行の法則を考えた天文学者ケプラーは 「天体のハルモニア」という音楽研究を残しています。 中世ヨーロッパでは「musica(音楽)」は「自由科目」 の中の 「理系科目」(!!)として、 必須の知識でした。 時代が下ると、 教会音楽、 世俗音楽は人間にとって重要なコミュニケーションの道具でしたし、 「教養ある人間なら、 楽譜が読み書きできたり楽器が演奏できたりするのは当たり前」、 そんな時代もありました。 これは何もヨーロッパに限りません。 日本でも平安時代の求婚はもっぱら「うた(和歌)」によって行われていましたし、 現在はもっぱら叙情詩歌や恋愛の歌になってしまっている「演歌」も、 もともとは明治時代、 自由民権運動を浸透させる触媒として誕生したジャンルだったのです。 このように「うた/音楽」は洋の東西を問わず、 教養ある人にとって必須のアイテムでした。

演奏に対する聴衆の態度も今とはずいぶん違っていたようです。 モーツァルトの自作自演の交響曲演奏会では、 途中にいきなり拍手が起こったり、 歓声が上がったりした旨の記録が残っています。 2つ前の記事でも書いたように、 当時の音楽家は当時の聴衆のために曲を書き、 聴衆はその「当時の最先端現代音楽」に耳を傾け、 鑑賞、 論評したのです。 彼らにとって、 「音楽」は、時代やそれを背景にした自分を表現するための必須アイテムであり、 聴衆と演奏家・作曲者の対話も現代よりずっと生々しいものでした。 当然、 音楽の内容も、 「日常」の延長線上に位置したのです。

更に追記すると・・・(^^;) 昔の音楽家は「新作」を作曲するたびに、 当時の人が「心地よく感じるかどうかを敢えて無視する」ことがあったということです。 「美しさ」は二の次。 昔の作曲家は、 敢えて「不快」な響きを用いることで 如何に当時の人々の心の底、 あるいは当時の時代背景を音楽の中で吐露するかに苦労しています。 バッハの 「マタイ受難曲」に出てくる「バラバ」を叫ぶ減7和音、 ワーグナーの有名な「トリスタンとイゾルデ」の冒頭和音。 これらは当時の人々にとって決して「美しい」物ではなく、 むしろ「不快な」物でした。 「不快な」ものを用いて世の人の注目を浴びるアヴァンギャルドな姿勢、 それを受け入れる同時代の聴衆がかつては存在したのです。 こうした「不快な物」は当時の時代の反映であり、 彼らはこれを用いることで当時の時代の一環、 あるいは当時の人々が考えていることを反芻し、 あるいは音楽の中で更に発展させて表現したのです。

現代はどうでしょうか。 「現代音楽」も作曲された 「当時の時代-現代-」 を反映している物だ、 と私は思います。 しかし我々は多くの現代音楽に耳をふさぎ、 数百年前の骨董音楽ばかりを楽しんでいる。 これはなぜなのでしょうか?

なぜかは分かりません。ただ、私は、これこそ
「現代=音楽の存在が歴史的上最も軽視されている時代」の証だ
と思います(
※脚注1)。 現代での「音楽」はその本来の役目-時代を反映し、 同時代に生きる人々の間でコミュニケーションを取り、 相手を思考させる-を失ってしまった。 人々は音楽に「心地よさ」「美しさ」を求め、 日常とは無縁の安らぎを求めるようになった。 すると、 「心地よくない」現代音楽は多くの場合、 敬遠されることになってしまう。 ホテルのラウンジのBGMで武満徹の 「ヴォーカリズムA・I」 が流れている例を私は未だに知りませんが(笑)、 それはおそらく武満徹の「ヴォーカリズムA・I」という音楽が 「心地よい安らぎ」 を与える性質の物ではないからでしょう。 こうして目を付けられたのが数百年前の 「骨董音楽(クラシック音楽)」 です。 それらの多くは機能和声に立脚し、 我々に安らぎを与える装飾品-そう、 現代の我々にとって、 音楽は「装飾品」以外の何者でもなくなってしまっているのです。 こうして、 クラシック音楽はもっぱら数百年以上昔の物のみが鑑賞の対象とされ、 結果として、 「クラシック音楽界」は 「新曲の誕生」 と多くの場合無縁の世界になってしまった。

もう一度繰り返します。 現代の我々にとって、 音楽は「装飾品」以外の何者でもなくなってしまっている。 この言葉に対して

「当たり前じゃん、音楽は昔から装飾品だよ」

という方もいるかも知れません。 ところが昔は違った。 先ほどの例の通り、 中世ヨーロッパや日本では「音楽/うた」は生活必須のアイテムだったのです。 このアイテムを身につけていないと当時の人々は生活ができなかった。 一方、 現代社会を生きていく我々には必要なのは、「音楽」よりもまず、 「市場経済学」 「科学技術」のほうでしょう。 現代は、 音楽的能力が完全に欠落した人間でもそれなりに世を渡っていける世の中です (※脚注2)。 言い換えるなら、 現代は、 「音楽」や「音楽家」にとっては人類史上最も肩身の狭い世の中です。 これはおそらく人類の歴史上初めてのことでしょう。

「現代の状況の反映」 「演奏者と聴衆の生々しい対話(演奏途中でも観客から拍手や歓声が入る)」 「新曲が直ちに鑑賞の対象になる」 ・・・ こうした点で、 「ポップス」が、 古来の音楽の「健全な姿」に近い形を 残しているのはとても興味深い気がします。 なぜクラシックが敬遠され、 ポップスがここまで流行っているのか、 そもそも「クラシック」 「ポップス」というジャンル分けの問題から 我々はスタートしなければならないのかも知れません。

更に私が不安なのは、 こうした 「現代は、 音楽が歴史上最も軽く見られているという点で 『危機的な時代』 である」 という状況を、 多くの専門的音楽家や音楽愛好家(現代音楽愛好家までも)が 自覚していないように私には感じられることです。 これが単に私の思い上がり、 あるいは 杞憂であれば良いのですが。

とはいったものの、 私自身、 どう解決したらよいのか分かりません。 「クラシック」を「骨董品アクセサリー」の立場から引きずりおろし、 現代に生きる人々が真に必要とする物に「復権」させる ・・・ この模索は一生続きそうです、 というよりも、 私一人の力で解決できる物ではない。 大変重い課題だと思います。




※脚注1:ただ、未だ「音楽」は社会に対しての影響力を残しています。 2001年9月半ば、ニューヨークの高層建築に旅客機がつっこむという 悲惨なテロ事件がありました。アメリカはこの後「テロ事件の張本人」 に対して「戦争体制」に入りました。 そして、 「戦争体制」に入るに際して、政府は 「厭戦気分を感じさせる」 という理由で、 ジョン・レノンの「イマジン」等を放送禁止にしたのです。 これを逆に見れば、ジョン・レノンの「イマジン」という音楽は 社会にそれだけ影響力を与える曲なのだ、ということになります。 こういう例がクラシック音楽界でも有ると良いのに・・・ ・・・というわけで、 この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^)

※脚注2:ただし、真に創造的な偉業を成し遂げるためには音楽的な感覚が絶対必要だと思います(・・・というか、信じています^^;)。 例えば、 前回の文章の脚注で書いた 「アインシュタインがヴァイオリンを趣味としていた」 などはその好例ではないでしょうか。 彼の偉業の中に音楽的思考を見つけることができるかも知れません。 というわけで、 この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^)

(2001.Oct.13)

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