Basso Continuo's Music Page
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「作曲的演奏」と書きましたが、 別に即興演奏の話ではありません。 むしろ、 ソルフェージュに若干関連した話です。
以前、私は、 「 『インヴェンション』におもう」 という文章の中で、 以下のように書きました。
現代のクラシックは 「作曲も演奏も1人でこなすことできる」 ほど単純、 小規模な物ではないのかもしれません。 しかし、 作曲にも演奏にも通じた過去の作曲家が こしらえた名曲を演奏するに際して、 作曲能力が欠落していた状態で 良い演奏が出来るとは、 私には到底思えません。
今から思うとこの表現、 ずいぶん 「過激」だったかもしれません。 (実際、 「これは言い過ぎだ!」 というメールも頂戴しました。) 無論、 作曲できる人がすべて 名演奏家であるわけではないですよね。 私の文章は演奏における 「作曲能力」 をいささか過大評価しているような印象を 与えかねない文章かもしれません。 決してそうではないことを お断りしておきます。 優れた演奏を行うための条件は いろいろあり、 作曲の知識というのはそのうちの ごく一部を占めているにすぎません。
ただし、
作曲の心得というのは「ごく一部」ではありますが、
演奏のための
重要な要素だと
思っています。
私が思うに、
演奏者が作曲の心得を習得する
究極の目的は、
「いま、
自分が演奏しようと思っている曲を、
あたかも自分が作曲した曲であるかのように、
内面からの自然な思考に
よって演奏する」
ことだと思うのです。
このことを、
ちょっと簡単な例で
説明してみます。
以下の楽譜をご覧ください。
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ご存知、 ショパンの 「華麗なる大円舞曲」 として有名な、 ワルツ作品18。 よく知られた旋律の 冒頭4小節を抜き出しています。 この部分は 「属七和音−主和音−属七和音−主和音(V7-I-V7-I)」 という動きをしています。 コードネームで書けば Bb7-Eb-Bb7-Eb("b"は「フラット」)です。
この旋律、 曲の後半で再現します。 そこの部分の楽譜を抜き出してみましょう。
こんな感じです。 伴奏が少し違いますね。 まず気がつくのがベースライン(低音部)、 最初ではB-Es-D-Esと比較的穏やかに動いていますが、 再現するときには、 B-Es-B-Esと一気に駆け上がっています。 これは、 主要テーマの再現をより華やかに出そうという 作者の意図だと思います。
で、 今ここで問題にしてみたいのは、 3小節目の2拍目・ 3拍目の音なんです。 最初のほう(次の楽譜の(A))は"B-F-As"の 3音であるのに、 再現しているほう(次の楽譜の(B))では"B-D-As"の 3音という具合に、 違っています。
非常に小さな違いのようですが、 じつはこの違い、 「導音 (長音階の第7音) を重複してはならない」 という 和声学の基本的な規則をふまえているのです。
「導音を重複してはならない」とは、 以下のような物です− 和声学では「導音」は、 「次の和音で主音に進むべき音」として扱われます。 (下の楽譜の(A)) ここで、もし2つ以上の声部で導音が存在すると、 両方とも次の和音で主音に進むはめになり、 あの、 和声の禁則として有名な 「平行8度(連続8度)」 が発生してしまうのです。 (下の楽譜の(B))
実際の楽曲で 次の和音へ主音に進まなかったとしても、 「導音」は、 「次で主音に進む期待を抱かせる」 という 「目立つ」音です。 このような目立つ音を 1つの和音の中で不用意に 重複させると、 その音だけが和音の中で浮いて 聞こえてしまい、 和音の響きのバランスが崩れてしまいます。 従って、 和声学では導音の重複は禁止とされているのです。
で、 先ほどの楽譜に戻ると・・・ ショパンは、 実に杓子定規なほどにこの法則を守っているのです。
次の楽譜は、 伴奏の3拍子を「1小節1和音」に還元した物です。 3小節目をご覧ください。 この曲はEs-dur(変ホ長調)ですから、 導音はD(レ)の音になります。 最初の提示のとき(次の樂譜の(A))では、 低音部に導音があるために 中音部では 導音の使用が避けられています。 再現するとき(次の樂譜の(B))には、 低音は導音ではないので、 中音部に導音が補填されています。
このように、 両者の間の音の違いは、 作曲法の1つである 「和声学」 の規則から必然的に説明されるのです。 ショパンが この曲で 実に厳格に作曲法の規則を適用していることが 分かります。 (なお、 1小節目の左手には導音がありませんが、 これはこの小節では右手に導音が存在しているからです)
この曲を演奏するピアニストがもし 「導音重複禁止」 のような作曲の作法を知っていれば、 上に述べた音の違いの理由を把握し、 これを 「演奏家自分自身の語法」として咀嚼し、 取り扱うことができます。 ひょっとしたら、 樂譜をちらりと一瞥しただけで、 この細かい音符の動きまで 「推定する」 「想像する」 ことが可能かもしれません。 逆に、 もしこうした 「作曲の作法」 を全く知らない場合、 こうした左手の音の違いを理解せず、 すべての音符を、 樂譜に与えられるがまま 演奏する、 ・・・ どちらがより 「自然」 な演奏になるでしょうか?
和声学を含んだ 「作曲法」とは、 いわば 「音楽の語法」 とでも言うべき物です。 この 「語法」 を身につけることは、 音符の配列の背後に横たわるある種の 「必然性」 を理解する能力を 身につけるということにつながります。 与えられた曲をあたかも 「自分が作った曲」 であるかのように 自然に扱うことができるようになる、 とまでいかなくとも、 「先の見通しも分からずに、 すべての音をまるで 『未知との遭遇』 のように扱う」 という事態を避ける意味でも、 「語法を身につける」というのは 重要なことなのではないかと思います。
ちなみに、 こうした技をマスターしていくと、 「暗譜」 や 「初見」に強くなります。 作曲法−音楽の語法−が理解できていると、 ある程度の音符が把握できれば、 それ以外の音符は 「自分で導き出せる」 のです。 暗譜に際して記憶しなければならない音符、 あるいは 初見に際して読みとらなければならない音符の 量が減る、 というわけですね。 ただ、 演奏家が作曲法を習得する目的は、 「暗譜や初見に強くなること」ではなく、 あくまで 「与えられた曲を自分の理解の下に咀嚼して演奏する」 ことでしょう。 これは広い意味でソルフェージュ (視唱) の能力に入るのだと思います。
※文中の楽譜は "MusicTime Deluxe for Windows 3.1 and 95"((C) 1996 Passport Designs Inc.)にて作成したものを ビットマップ化したものです。
※自己紹介や別の文章で、 「ショパンは苦手」とか 「アンチショパン」 といっている割にショパンの引用が多い? え、 そりゃ「アンチ」を名乗る以上、 「敵」のことを知らなければ(爆)。 食わず嫌いはいけません(笑)